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東京地方裁判所 平成9年(ワ)15759号 判決 1999年3月26日

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

菊池紘

小沢年樹

被告

新星自動車株式会社

右代表者代表取締役

上埜健太郎

右訴訟代理人弁護士

飯田実

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  原告が被告に対し雇用契約に基づく権利を有することを確認する。

二  被告は原告に対し、金五九万二九七一円及び平成九年八月以降毎月二五日限り金四七万一三三六円を支払え。

第二事案の概要

一  本件は、被告に雇用されていた原告が、被告に解雇されたとして、被告に対し、雇用契約に基づく権利を有することの確認並びに解雇されたとする平成九年六月八日以降の賃金として金五九万二九七一円及び同年八月以降毎月二五日限り金四七万一三三六円の支払を求めた事案である。

二  前提となる事実

1  被告は、肩書住所地に本店を置いて一般乗用旅客自動車運送事業を営む株式会社である(争いがない。)。

2  原告は平成八年八月被告に雇用され、タクシー運転手として勤務していた(雇用された年月については原告本人、その余は争いがない。)。

3  被告は、平成九年六月七日、原告に対し、原告が被告の就業規則(以下「本件就業規則」という。)一三二条八号に規定する「刑事上の罪にとわれる言動又は行為」をしたことを理由に原告を懲戒解雇する旨の意思表示をした(以下「本件解雇」という。)(争いがない)。

4  本件就業規則には、次のような定めがある(<証拠略>)。

(一) 第一一八条(懲戒の目的)

会社は、勤労意欲の向上と、企業経営の健全な秩序維持をはかることを目的として懲戒を行う。

(二) 第一二〇条(懲戒の種類、方法)

懲戒は、戒告、減給、昇給停止、AVM営業停止、無線営業停止、乗務停止、出勤停止、降職、懲戒解雇の9種で、その方法は次の通りとし、二つ以上併科することがある。

(1) 戒告 将来を戒め、懲戒記録簿に記録する。

(2) 減給 1回につき、期間を限って平均賃金の半日分以内を減額し、懲戒記録簿に記録する。但しその総額はその月の賃金総額の10分の1を超えることはない。

(3) 昇給停止 別に定める賃金規定により次期の昇給を停止し、懲戒記録簿に記録する。

(4) AVM営業停止 一定期間AVM営業を停止し、再教育を受けさせ、懲戒記録簿に記録する。

(5) 無線営業停止 一定期間無線営業を停止し、再教育を受けさせ、懲戒記録簿に記録する。

(6) 乗務停止 一定期間乗務を停止し、再教育を受けさせ、懲戒記録簿に記録する。

(7) 出勤停止 30日労働日以内の期間を定めて出勤停止を命じ、懲戒記録簿に記録する。出勤停止中の賃金は一切支給しない。

(8) 降職 資格、職階を引き下げ、別に定める賃金規定により、賃金を査定し、懲戒記録簿等に記録する。

(9) 懲戒解雇 予告期間を設けないで即時解雇し退職金を支給しない。この場合所轄労働基準監督署長の認定を受けたときは予告手当も支給しない。

(三) 第一二一条(懲戒の決定)

(1) 懲戒は、懲戒事由の動機、故意、過失の程度、集団の威力、暴力、詐術の使用の有無、又はその程度、勤務成績等の実績、行為後の態度等各種の情状を考慮して決定する。

(2) 懲戒事由が軽微であるか、特に情状酌量の余地があるか又は本人が強く反省していると会社が認めたときは、懲戒を免じて訓戒に止めることがある。

(3) 前項と反対な者に対しては、情状によって直ちに懲戒解雇することがある。

(四) 第一二二条(二以上の懲戒事由に該当する場合)

同一の行為又は連続する行為が、懲戒事由の二以上にわたる場合においては、各々の事由による懲戒のうち最も重い懲戒を行なう。

(五) 第一三二条(懲戒解雇)

会社は、従業員が次の各号の一に該当するときは懲戒解雇にする。

(1) 一号ないし六号は省略

(2) 他の従業員に対して、暴行、脅迫、強要を加え、業務の執行もしくは勤労意欲を阻害する行為のあったとき(七号)。

(3) 刑事上の罪にとわれる言動又は行為のあったとき(八号)。

(4) 九号ないし一八号は省略

(5) 業務上の指示、命令、指導、教育に反抗して職場の秩序を乱したとき(一九号)。

(6) 二〇号ないし三〇号は省略

(7) 正当に納金しなかったとき(三一号)

(8) タクシー乗車券、チケット、クーポン券、その他カード類の改変、不正使用、売買等の行為があったとき(三二号)。

(9) 三三号ないし三六号は省略

(六) 第一三三条(懲戒解雇の軽減)

懲戒解雇事由に該当するもので、過去の勤務成績、程度等の情状を酌量し、懲戒解雇を免じ他の懲戒に処するか又は解雇或は退職にすることがある。

5  原告の平成八年九月から平成九年五月までの賃金月額(各種保険、年金などを差し引く前の金額)は平均すると一カ月当たり金四七万一三三六円であった。被告は従業員に対し前月一六日から当月一五日までの分の賃金を当月二五日に支払っていた(争いがない。)。

三  争点

本件解雇の意思表示は有効か。

1  被告の主張

(一) 平成九年五月三一日午前七時ころに仕事を終えて車庫に戻った原告は車庫の中にタクシーを停めて運転席で日報を書いていたところ、被告の従業員でタクシー運転手として勤務していたHF(以下「H」という。)が助手席のドア付近をノックしたので、原告が助手席のドアを開けると、Hが「話があるがいいですか。」と言うので、原告は「いいですよ。」と答えて助手席に置いてあったヘルメットを取って自分の膝の上に置き助手席を空け、Hは空いた助手席に座った。Hが原告のタクシーに乗り込んだときには、タクシーはエンジンをかけたままでクーラーが入っており、運転席側の窓も助手席側の窓も閉まっていた。助手席に座ったHは原告に対し「あんた大黒屋に行かんかったか。」と聞いたところ、原告は「行ったよ。」と答えたので、Hは「俺が他の人に言ったのを盗み聞きして行ったのとちゃうか。」と聞くと、原告は「違う。」と答えた。Hが「じゃあ、あんたは自分で見つけて買うたんか。」と聞くと、原告は「そうだ。」と答えるので、Hは「どこを何件回ったのか教えてくれ。確認するわ。」と言ったところ、原告は「なんで、お前にいちいち言わなくてはいけないのか。」と答えた。Hが「買い占めを知らんで買いに行った俺の立場をどう思っている。」と聞くと、原告は「なんだ、こら。」と言ってHの胸ぐらをつかみかかってきたので、ムカッとしたHは利き手ではない左手で原告の口付近を一回殴打した。ところが、Hは体格の良い原告から助手席のドアに押さえつけられ、ヘルメットで頭部を数え切れない回数殴打され、右手親指をかみつかれ、その結果、頭部、顔面、躯幹、両四肢打撲、頸腰挫傷、右手第一指打撲の傷害を負った。Hが原告から車内で右のような暴行を受けたのは五分くらいのことであった。騒ぎを聞きつけた被告の上司や同僚が両側のドアを開け、二人は外に出たが、車内でやられっぱなしのHは憤懣やるかたなく原告のタクシーの運転席側に置いてあったヘルメットを取り出し、鼻血を出しながら車外で原告の肩と頭部を三、四回殴打したが、すぐに上司や同僚が止めに入って両者を引き離した。車外での出来事は三分くらいのことであった。

(二) 被告の業務部長であった佐藤昌夫(以下「佐藤」という。)は、原告とHが引き離された後に両者から事情を聞くことにし、まず当日出番(仕事)であったHから事情を聞き始めたところ、事情を聞くために待機させていた原告が佐藤部長の制止を振り切って事務所の二階にある公衆電話でパトカーと救急車を呼んだ。救急車が到着した途端にそれまでぴんぴんしていた原告(非常に体格が良い。)は倒れるように肩を貸してくれと言い、救急隊員の問い掛けに対し、自分が誰だかわからない、名前も覚えていないと答えたので、救急隊員は原告に脳障害があることを危惧した。佐藤部長は救急隊員に原告の氏名などを書いたメモを渡し、原告はとりあえず目白病院に運び込まれたが、二時間もしないうちに退院してしまった。Hは原告が救急車を呼んだのを見て、このままでは自分が一方的に悪者になってしまうという心配から、救急車を呼んで新宿区内の春山外科病院で診察を受け、前記の傷害について約二週間の外来加療を要する見込みと診断され治療を受けた。野方警察署から原告とHから事情を聞きたいと言われていたので、Hは病院での治療を終えるとそのまま野方警察署に出頭し、原告は翌同年六月一日佐藤部長とともに野方警察署に出頭し、それぞれ取調べを受けた。原告を取り調べた警察官は「原告は許せない。社会の敵だ。」と漏らしていた。原告が佐藤部長の制止を振り切って救急車とパトカーを呼び、Hも救急車を呼んだため、被告の近所の人たちが早朝から何事かと駆け付け、騒ぎが大きくなり、被告としては非常に迷惑を被った。

(三) 佐藤部長は同月五日原告とHを被告の事務所に呼んで、原告とHに対し野方警察署にも話したので社内問題として円満に処理したいから和解するように説得したが、原告は欠勤分の休業損害と治療費を支払うことが条件であると言い、Hがその支払を拒否したので、原告とHを和解させることができなかった。佐藤部長は同月七日再び原告とHを被告の事務所に呼んで、「被告としては当時の両名のけがの状況と警察の捜査状況から、両名のけんかと判断する。甲野君の言うように一方的にHから痛めつけられ自己防衛したというのなら、どうしてH君があなた同様けがをしているのか。けんかなのだから和解しなさい。大変な騒ぎになったので、そのまま乗務員というわけにはいかないが、しばらく内勤させた上で乗務員に復帰させるから和解しなさい。」と説得したが、原告は聞き入れず、「会社は、なぜ、けんかと見るんだ。Hの行為は殺人行為だ。」と、応接室で、耳をつんざくような大声でわめき散らした。佐藤部長はやむを得ず原告とHに対し「就業規則では暴力行為とクーポン券による不正納金の二つの理由で懲戒解雇になりますよ。」と告げた。原告はふてくされていたが、Hは素直に応じた。

(四) 被告ではタクシー乗務員が金券ショップで購入したクーポン券を旅客から受け取った現金の代わりに被告に納入して鞘稼ぎをするという風評があったが、原告の同年五月三〇日付け乗務記録報告書と乗務員車両入金記録を照らし合わせたところ、原告は旅客からタクシー料金を現金で受領しながら、被告には金三万一七〇〇円のクーポン券で納金して精算していることが判明した。そこで、佐藤部長が同年六月七日に原告に対し懲戒解雇の意思表示をした際にクーポン券の不正納金も解雇の理由としたのである。

(五) その後、原告とHを和解させることができなかったことを野方警察署に伝えると、同警察署刑事課は相互傷害事件として送致すると連絡してきた。このように原告は業務上の上司である佐藤部長の指示、命令、指導、教育に反抗してこれに全く応じなかった。佐藤部長は同月一五日原告を被告の事務所に呼んで「今からでも遅くないから依願退職の手続を採るように」話したが、原告は「これはけんかではなく、殺人行為だ。Hのような人間とは一緒に仕事はできない。Hを解雇しない限り応じられない。」と答えるばかりであった。原告は同月一七日から同年七月にかけてほとんど毎日のように被告の構内入り口の路上で「会社は、けんか両成敗でクビだというのです。絶対に、私は悪くありません。正当防衛です。」と、同年五月三一日のけんかの状況を一方的に自己に有利な言葉にすり替えた文章を載せたビラを被告の従業員に配布し続けて被告を攻撃した。佐藤部長は原告に対し離職票をいつでも出すから来るように、ビラ配りなどやめなさいと説得したが、原告は聞き入れなかった。原告は同年六月一七日被告に対し懲戒解雇の書面を早く送ってほしいと連絡してきたので、被告は同月二三日とりあえず原告あてに懲戒解雇通知書(<証拠略>)を送付した。被告は原告とHの将来を思い、対外的には依願退職扱いとし、同月三〇日付けで東京無線タクシー協同組合あてに原告とHが同月一日付けで依願退職したという内容の報告書を提出した。

(六) 原告の平成九年五月三一日以降の一連の行為のうち右同日にHとの間でした相互傷害行為(前記第二の三1(一))は本件就業規則一三二条七号及び同条八号に該当し、原告が佐藤部長の説得に応ぜずに反抗した行為(前記第二の三1(二)、(三))は本件就業規則一三二条一九号に該当し、クーポン券による不正納金(前記第二の三1(四))は本件就業規則一三二条三一号、三二号に該当する。

2  原告の主張

(一) 平成九年五月三一日午前七時ころに仕事を終えて車庫に戻った原告が車庫の真ん中あたりにタクシーを停めて運転席に座ってチャート紙を抜いて日報を書いていると、Hが助手席のドアを開けて車内に入ってきて助手席に置いてあった原告のヘルメットを助手席の足元に置いた上、助手席から体を乗り出すようにして開けてあった運転席側の窓をわざわざ閉めて声が外にもれないようにした。原告が日報の整理を続けていると、Hは「クーポン券はどこで買ったのか。」と言うので、原告は「水道橋で買ったよ。」と答えたところ、Hは「私が大黒屋で買っているのを知っているだろう。」、「私が誰かと大黒屋の話をしたのを聞いて買いに行ったのだろう。」と聞くので、原告が「そうだ。」と答えると、Hは「なぜ私に一言断らずに大黒屋に行った。あそこは、俺があちこちいろいろ探して見つけたのだ。」と言うので、原告は「なぜH君に断らなければならないのだ。私もいろいろ探した。」と言うと、Hは「それはどことどこだ。俺があんたの探したところを調べて、うそだったらただではおかんぞ。」とすごむので、原告は「ああいいよ、調べてみてくれ。」と答えると、Hは「なぜ私に断りなく買い占めるのか。」と大声で怒鳴り、目をつり上げて「俺は前からおまえのことをすかん。」とすごみ、いきなり左手拳で原告の口付近を力一杯殴打した。原告は、さらにHが殴りかかってくるので、タクシーのハンドルの横のメーター器などを壊されてはいけないと考え、Hの暴力を避けるため顔を下に向け両腕を前に伸ばしてHの手を押さえようとした。しかし、Hは連続して執拗に殴り続け、原告の顔を三回くらい頭や腕を数え切れない回数殴った。一方的な暴行が続く中で原告は誰か止めに入ってくれないかと考えていたが、誰も止めに入らなかった。原告はたまらず三回ほど殴り返したが、顔は下を向いたままで手を前に出していたので、Hのどこに当たったかはわからなかった。原告は車外に逃げ、車に傷を付けられてはいけないという考えから三メートル半くらい離れ、狂ったように暴力を振るうHを取り押さえようとしたが、Hは助手席の足元から原告のヘルメットを持ち出し、このヘルメットで力一杯に原告の顔と頭を三、四回殴打した。原告は両手を組んで頭を守る防御姿勢をとったが、Hはさらにヘルメットで原告の頭を三、四回くらい、腕を四回くらい力一杯殴りつけた。そのため原告は気が遠くなりそうになり、このままでは殺されるかと思ったが、ようやく職場の同僚三、四人に助け出された。

以上の経過に照らせば、原告とHのけんかではなくHによる一方的な暴行とこれに対する原告の正当防衛行為であることは明らかである。Hもこれを認め、示談書(<証拠略>)を作成している。

(二) 原告は心臓がどきどきしていまにも飛び出しそうな感じでこのまま倒れてしまうのかと思ったが、ようやっとの思いで一一〇番と一一九番に電話を架け、救急車で目白病院に運び込まれた。原告はHが被告の事務所の二階にある事務室で事情を聞かれているときに一階の点呼室で管理職の小川に警察と救急車に電話を架けるよう求めたところ、二階の電話を使うように言われたので、やっとの思いで電話を架けたのであり、それまでぴんぴんしていた原告が制止を振りきって電話を架けたことはない。目白病院に運び込まれた原告はそのまま入院となり、同日午前中に三本の点滴(訴状では二本の点滴を受けたと主張していたが、後に三本の点滴を受けたと主張を改めた。)を受けた。病院からは入院を続けるように言われたが、見舞いに来た原告の母親が「気の狂ったようなHでは病院まで殺しに来るかもわからない。家ならマンションのドア一つ鍵をかければ大丈夫だから。」と言うので、原告は右同日午後には目白病院を退院して自宅に戻った。原告の右顔面は同年六月一日朝からひどくはれ上がるとともに首が全く動かなくなり、両腕も上がらなくなり、両手がしびれて握力がなくなった。その後一週間は首が全く動かず、首が普通に回るようになるまで二週間を要した。原告の顔のはれがひき、両腕が上がるようになったのは一〇日後のことであった。原告が野方警察署に出頭したのは同月七日のことであり、佐藤部長は同道せず、原告一人で出頭した。

(三) 佐藤部長が原告とHを被告の事務所に呼んだのは同月五日ではなく、同月四日である。その日の話合いの経過については被告が同月五日の話合いの経過として主張する経過のとおりである。原告は同月七日野方警察署に出頭して取調べを受けた後に被告の事務所に出社したところ、佐藤部長からけんか両成敗を理由に懲戒解雇することを告げられたのであり、佐藤部長からHとの和解を勧められたことはなく、その日に被告でHと顔を合わせたことはない。佐藤部長が原告に対し懲戒解雇を告げたときの懲戒解雇の理由として「クーポン券による不正納金」は挙げられていなかった。

(四) 原告が平成九年五月三〇日の乗務において旅客からタクシー料金を現金で受領しながら、被告には金三万一七〇〇円のクーポン券で納金して精算するなどということをしたことはない。佐藤部長は同年六月七日に原告に対し懲戒解雇の意思表示をした際に理由としてクーポン券の不正納金を原告には告げていない。被告が不正納金を初めて指摘したのは同月一五日であり、被告は「クーポン券が一六〇〇円分多い。」と原告に述べており、原告は「コンピューターに現金とクーポン券を打ち込んであるから調べてほしい。」と申し出ている。

また、同年五月三〇日に原告が乗務した際の売上げについて作成された乗務員車両入金記録(<証拠略>)ではクーポンとして金三万一七〇〇円と記載されているのに対し、右同日の原告の乗務記録報告書(<証拠略>)の裏面の区分欄の「ク」と記載された「回数」の「19」「33」「34」の各旅客の乗車料金の合計額は金二万七八六〇円であるが、クーポン券のみで料金の全額を支払う旅客はまれであり、通常は現金とクーポン券で料金を支払うのであって、そのような場合に乗務記録報告書の裏面の区分欄に「ク」と記載するかどうかについて明確な基準はなく、そのためクーポン券で料金の支払を受けても「ク」と書くか書かないかは乗務員の裁量に任されているのであって、乗務記録報告書の裏面の区分欄の「ク」と記載された金額を合計しても、常に乗務員車両入金報告書に記載されたクーポン券の金額と一致するものではない。また、原告は回数欄「14」の旅客からクーポン券で料金を支払ってもらったにもかかわらずこれを乗務記録報告書に記載しなかったのであって、したがって、乗務員車両入金記録のクーポンの金額と乗務記録報告書のクーポンの金額が一致しないことが直ちに原告が被告の主張にかかる不正納金をしたことを意味するものではない。

(五) 原告が業務上の上司である佐藤部長の指示、命令、指導、教育に反抗してこれに全く応じなかったということがないことは、以上述べたことから明らかである。佐藤部長は同月一五日改めて解雇理由を説明すると言って原告を被告の事務所に呼び出し「Hとのけんかと現金をクーポン券にすり替えたことが懲戒解雇の理由である。」と告げたので、Hとの件はけんかではなく一方的な暴行であること、クーポン券についても不正納金などしたことはないと強く抗議した。その後原告は自己の正当性を主張したビラを配布した。原告は同月一七日被告に対し解雇の理由を記載した書面を早く送ってほしいと連絡し、被告は同月二三日原告あてに懲戒解雇通知書(<証拠略>)を送付した。

(六) 以上によれば、原告の平成九年五月三一日以降の一連の行為のうち右同日にHとの間でした相互傷害行為(前記第二の三2(一))はHによる一方的な暴行とそれに対する原告の正当防衛行為であって、それが本件就業規則一三二条八号に該当しないことは明らかであり、本件解雇は解雇の理由を欠いているというべきである。

(七) 原告が同年六月七日に被告から本件解雇の理由として告げられたのは、原告の行為が本件就業規則一三二条八号に該当するということだけであり、そのほかの解雇理由は告げられなかったが、被告は本訴に至って本件解雇の理由として原告の行為が本件就業規則一三二条一九号、三一号及び三二号に該当すると主張し始めている。これは本件解雇の後に懲戒解雇事由を追加するものであり、懲戒手続ないし解雇手続における適正手続の要請上明らかに許されないものというべきである。

(八) 被告が本訴において新たに追加した解雇の理由は事実関係として全く存しない虚偽の理由か、仮に存在したとしても、懲戒解雇事由にも解雇理由にも該当しない不当な理由である。

すなわち、本件就業規則一三二条一九号に該当する原告の行為とは、<1>原告が平成九年五月三一日に佐藤部長の制止を振り切って二階にある公衆電話でパトカーと救急車を呼んだこと、<2> 佐藤部長が同年六月五日に社内問題として円滑(ママ)に処理したいから和解するように説得したが、原告はHが欠勤した分の休業損害と治療費を支払うことが条件であると言ったところ、Hがこれを拒絶したので和解が成立しなかったこと、<3> 佐藤部長が同月七日に原告とHを被告に呼んでけんかなのだから和解しなさいと説得したが、原告が聞き入れなかったことであるが、<1>については、原告がHから受けた暴行によって被った原告の傷害の内容、程度は前記第二の三2(二)のとおりであり、それほどの暴行を受けた原告が警察と救急車を呼ぶよう求めたのに、被告の管理者はこれを拒否したのであって、そのような管理者の態度こそ責められるべきであって、原告が警察や救急車を呼んだことが懲戒解雇事由に当たるはずもない。<2>については、Hと原告との話合いの際にはHは自分が一方的に手を出したことは認めて謝罪の意を表明したのであるから、一方的な暴行の被害者である原告が加害者であることを自認しているHに対し休業損害及び治療費を請求するのは社会通念上至極当然のことであって、原告がHに休業損害及び治療費を請求したことで和解が成立しなかったからといって、そのことが懲戒解雇事由に当たるはずもない。<3>については、佐藤部長が原告に和解を勧めたとされる同月七日のわずか二日前に原告と被告が話し合ったが、Hが原告の請求を拒否したため和解が成立しなかったという経過があったのであり、佐藤部長から和解を勧められたからといって、原告が直ちにそれに応ずることができるものでもないのであり、したがって、原告が佐藤部長の勧めに応じて和解をしなかったことが懲戒解雇事由に当たるとはいえないことは明らかである。

第三当裁判所の判断

一  争点(本件解雇の意思表示は有効か。)について

1  証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告のタクシーに乗車した旅客はタクシー料金を現金の代わりにクーポン券で支払うことができるが、平成九年二月半ばころまで被告で扱っていたクーポン券は、例えば三〇〇〇円のクーポン券には三〇〇〇円の五パーセント増しの三一五〇円分のクーポン券がつづられているというようにクーポン券の購入代金よりも若干多い額面金額のクーポン券がつづられており、このクーポン券を金券ショップなどで購入すれば、購入代金よりも若干安い金額で購入できることから、被告のタクシーの乗務員がこのクーポン券を金券ショップで購入し、タクシーに乗務した際の売上げの一部を現金に換えてこのクーポン券を何冊かずつ被告に納入すれば、売上げとして納入したクーポン券一冊こどに一冊のクーポン券につづられているクーポン券の額面金額の合計金額からその一冊のクーポン券を購入した代金額を差し引いた残額を手にすることができたが、これはクーポン券による不正納金とされ、被告は日ごろから乗務員に対しそのような不正納金をしないよう注意してきた。被告は平成九年二月半ばころ以降はこの五パーセント増しのクーポン券の販売をやめたため、金券ショップではこの五パーセント増しのクーポン券は品薄となったが、被告の乗務員であったHは大黒屋という金券ショップに五パーセント増しの三〇〇〇円のクーポン券が一〇〇冊ほどあることを知って、大黒屋に行くたびに一〇冊ずつ購入し、これを使って不正納金をしていた。Hの外にはこのクーポン券を大黒屋に買いに来る者はおらず、Hは行けば買えるものと思っていた。そして、Hが最後の一〇冊か二〇冊ほどのクーポン券を購入しようと大黒屋に行くと、大黒屋の店員から昨日すべて売れたと言われた。同店員がクーポン券を買った人の服装について被告と同じ制服を着た人であったと聞かされたHは被告の他の乗務員に対し最近被告の乗務員の中にクーポン券を買った者がいないかどうかを尋ねたところ、原告が最近クーポン券を買ったという情報を得た(<証拠・人証略>)。

(二) 同年五月三一日午前七時ころに仕事を終えて車庫に戻った原告は車庫の真ん中あたりにタクシーを停めて運転席に座って日報を書いていると、右同日に乗務予定のHが原告が乗っているタクシーの助手席側のドアの前にやってきた。Hは原告のタクシーの助手席に座って原告に対し大黒屋でタクシーのクーポン券を買わなかったかどうかを尋ねたところ、原告は大黒屋でタクシーのクーポン券を買ったことがあると答えたので、Hが原告に対し大黒屋にタクシーのクーポン券があることは自分が他の人にその話をしているのを聞いて知ったのだろうと尋ねると、原告はそれは違うと否定したので、Hは原告に対し原告が大黒屋を自分で見つけたというのか、そういうのならどこを何件回ったか確認するから回った店の名前を教えろと迫ったが、原告は答える必要はないと断った。Hは原告に対しなぜ自分に断りもなく買い占めをするのかと言い、原告の応対に腹を立てて、利き手ではない左手で原告の口付近を一回殴打したところ、原告はすぐに殴り返してきて、運転席に座った原告と助手席に座ったHとの間で殴り合いが始まり、やがてHは原告から助手席のドアに押さえつけられて原告から殴られるようになった。そのうちに原告とHの殴り合いを聞きつけた同僚などが止めに入り、原告とHはタクシーの外に出たが、車内で一方的に殴られたと感じていたHは怒りが治まらず、車内にあったヘルメットで原告を何回も殴打し始めた。すぐに同僚などが止めに入って原告とHを引き離した(以上のHと原告との殴り合いが被告の主張するとおりけんかというべきか、原告の主張するとおりHによる一方的な暴行とそれに対する正当防衛行為というべきかについては、後記第三の一3(三)において検討することとし、以下では「本件殴り合い」と呼ぶこととする。)(<証拠・人証略>)。

(三) 当時被告の業務課(ママ)長であった佐藤は、原告とHが引き離された後に両者から事情を聞くため両者を被告の事務所の二階に呼んだ。原告もHもけがをしており、原告の顔にもHの顔にも血糊が付いていたが、佐藤が見る限りはそれほどの外傷には見えず、Hが話ができる以上、原告のけがもその程度であると考えて、事務所の二階の応接室でまず当日出番(仕事)であったHから事情を聞き始めたところ、事情を聞くために待機させていた原告の話し声から原告が警察と救急車を呼ぶために電話を架けようとしているのがわかったので、これをやめさせようとした。しかし、原告はこれを聞き入れずに警察と救急車を呼ぶために電話を架け、しばらくするとパトカーと救急車が到着した。佐藤は救急隊員に原告の住所と氏名を書いたメモを渡し、原告は救急車で目白病院に運び込まれて一旦は同病院に入院したが、その日の午後には退院した。パトカーに乗って来た警察官から事情聴取をしたいので警察署への同行を求められたHは警察署に行く前にけがの手当をしたいと申し出たところ、Hを病院に搬送するために救急車が呼ばれ、Hはその救急車に乗って春山外科病院に運び込まれ、同病院で治療を受けた後、野方警察署に出向いて警察官から事情を聴取された(<証拠・人証略>)。

(四) 原告は目白病院において顔面打撲、右上腕打撲、頚椎捻挫の傷害により全治まで約二週間の治療を要すると診断され、Hは春山外科病院において、頭部、顔面、躯幹、両四肢打撲、頸腰挫傷、右手第一指打撲の傷害の(ママ)傷害により約二週間の外来治療を要すると診断された(<証拠略>)。

(五) 野方警察署から本件殴り合いは被告の内部で起こったことであるから、刑事事件として立件せずに社内で穏便に処理をした方がよいという示唆を受けた佐藤は、同年六月四日か同月五日に、Hと原告を被告の事務所に呼んで、両名に対し、お互い話し合って警察沙汰にしないで済ませた方がよいと言って、佐藤が席を外してHと原告だけにして両名で話し合わせたが、原告がHに対し話合いで解決する前提として原告の欠勤分の休業損害と原告の治療費の支払を求め、Hがこれを拒否したので、話合いは物別れに終わった。佐藤は、Hと原告の話合いの結果を聞いて、原告に翻意を促す趣旨で、Hと原告に対し、本件殴り合いはけんかであると指摘した上、原告が本件殴り合いをあくまでも刑事事件として警察に扱ってもらうというのなら、被告内で起きた刑事事件については本件就業規則に則って厳正に処理するほかなく、そうなると、Hも原告も本件就業規則に則って解雇ということになると説明したが、原告から休業損害と治療費の支払を求めるのをあきらめてHと和解すると言う申出はなかった。佐藤が右の話合いの翌日には原告とHを和解させることができなかったことを野方警察署に伝えたところ、同警察署刑事課は本件殴り合いを相互傷害事件として送致すると連絡してきた。そして、H、原告及び佐藤は同月七日午前中に野方警察署に呼ばれてそれぞれ事情を聴取され、その内容を記載した調書がそれぞれ作成され、同日午後からは被告の車庫においてH及び原告が別々に立ち会って実況見分が行われた。佐藤は、原告の立会いの下に行われた実況見分が終わった後に、原告に対し、被告のためにすることを示して原告がHとけんかしたことが本件就業規則一三二条八号に該当することを理由に原告を懲戒解雇することを伝えた(<証拠・人証略>)。

(六) Hは同年五月三一日に佐藤から事情を聞かれた際には原告との殴り合いの原因が原告にクーポン券を買い占められたことであることは伏せていたが、佐藤は同年六月四日か同月五日の話合いの際には本件殴り合いの原因が原告にクーポン券を買い占められたことであることを把握していた。佐藤は、同年五月三〇日の原告の乗務における売上げにおいて乗務記録報告書ではクーポン券で料金の支払を受けたのは金二万七八六〇円であるとされているのに、右同日の原告の乗務における売上げの一部として三万一七〇〇円のクーポン券を納金していること、右同月に入って原告の売上においてクーポン券による納金額が増加しており、これは原告が大黒屋においてクーポン券を買い占めた時期と符合することから、原告が被告に売上げを納金する際にクーポン券による不正納金をしたのではないかと疑っていた。佐藤は本件解雇の意思表示をした前後を通じて原告がクーポン券による不正納金をしたかどうかについて調査を行ったが、原告がクーポン券による不正納金をした確証をつかむことはできなかった(<証拠・人証略>)。

(七) 佐藤は同月一五日本件解雇の理由を明らかにする目的で原告を被告の事務所に呼び出し「Hとのけんかと現金をクーポン券にすり替えたことが懲戒解雇の理由である。」と告げたが、佐藤は本件解雇の主たる理由は同年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当することであり、原告がクーポン券による不正納金をしたことは付帯的な理由であると考えていた。佐藤から解雇の理由を告げられた原告は、本件殴り合いはけんかではなく一方的な暴行であること、クーポン券についても不正納金などしたことはないと強く抗議した。その後原告は被告の車庫の前で自己の正当性を主張したビラを配布し始めた。原告は同月一七日被告に対し解雇の理由を記載した書面を早く送ってほしいと連絡し、被告は同月二三日原告あてに懲戒解雇通知書(<証拠略>)を送付した(<証拠・人証略>)。

(八) 野方警察署は同年五月三一日朝に起きた本件殴り合いについて傷害被疑事件としてHと原告を東京地方検察庁に送致した。Hは同年九月二六日原告との間で本件殴り合いについて示談をしたが、その際取り交わされた示談書(<証拠略>)には、Hは原告に対し両者間で同年五月三一日朝に発生した事件の発端がHから原告に加えられた一方的な暴行であること及び原告の反撃はHの右暴行に対しやむを得ずなされた必要最小限の防衛行為であったことを確認することなどが書かれていた。Hがこのような内容の示談書を取り交わしたのは、示談をすれば不起訴処分になるのではないかという期待があったことによる。東京地方検察庁は同年一〇月一七日原告を不起訴処分とし、そのころHも不起訴処分とした(<証拠・人証略>、弁論の全趣旨)。

(九) Hは同年六月一日以降毎朝出勤していたが、被告は本件殴り合いについて何らの決着もついていなかったので、Hを乗務させなかった。原告は同月四日か同月五日に佐藤に呼ばれて被告に出社した外は本件解雇の意思表示がされた同月七日まで被告に出勤しなかった(<人証略>)。

(一〇) Hも原告も被告の乗務員の中では売上げが非常に多い乗務員であった(<人証略>)。

(一一) 原告は大黒屋でクーポン券をあるだけ全部購入したが、大黒屋にクーポン券があるのを知ったのはHが大黒屋のクーポン券のことを話しているのを聞いたからである(<人証略>)。

2(一)  以上の事実が認められる。

(二)  これに対し、

(1) 原告は、平成九年五月三一日の朝に被告(ママ)とクーポン券のことで言い争ったときに、Hが原告に対し大黒屋にタクシーのクーポン券があることは自分が他の人にその話をしているのを聞いて知ったのだろうと尋ねたのに対し、原告はそうだと答えたと主張し、その本人尋問ではこれに沿う供述をしている。

しかし、原告が右のHの質問に対して答えた後に、原告が自分でタクシーのクーポン券を探し回ったというのなら、その店を確認するから店名を教えろとHから原告が迫られていることは原告も自認しているところ、右の会話の内容の経過からすれば、右のHの質問に対し原告がこれを否定したからこそ、Hから店名を教えるよう迫られたという方が自然であると考えられる。右の原告の供述は採用できない。

(2) 被告は、原告とHが車内で殴り合いをした際に原告はHをヘルメットで殴ったと主張しており、Hはその証人尋問においてこれに沿う証言をしている。

しかし、(人証略)の証言及びHが原告との殴り合いによって前記第三の一1(四)で認定した傷害を負ったことは、右のHの証言を裏付ける的確な証拠ということはできず、他に右のHの証言を裏付ける的確な証拠はないから、右のHの証言を採用することはできない。

(3) 佐藤は、その陳述書(<証拠略>)及び証人尋問において、同年六月七日に行われた実況見分の後にHと原告を呼んで和解を勧めたが、原告はこれに応じなかったので、暴力行為とクーポン券による不正納金の二つの理由で懲戒解雇になると話したと供述ないし証言している。

しかし、Hはその証人尋問においてHが原告と同席の下で佐藤から和解を勧められたのは同月四日か同月五日のことであると証言しており、原告もその本人尋問において同趣旨の供述をしていること、右の佐藤の供述ないし証言を前提とすると、佐藤は同月七日にHと原告に和解を勧めたが原告に拒否されて和解を成立させることができなかった直後に前記第二の三1(三)のとおり暴力行為とクーポン券による不正納金で懲戒解雇されることがあり得ることを伝えたということになるが、佐藤の供述ないし証言によれば、右は単なる解雇の予告にすぎないものと考えられ、これが本件解雇の意思表示であるとは考えがたいのであるが、他方において、被告が同月七日に原告に対し本件解雇の意思表示をしたことは争いがない(前記第二の二3)のであり、そうすると、解雇の予告は本件解雇の意思表示がされた日とは別の日に行われたと考えるのが自然かつ合理的である。このように考えてくると、右の佐藤の供述ないし証言は同月四日か同月五日に行われたHと原告との話合いの経過を説明したものと考えるのが合理的である。そして、Hはその証人尋問において本件殴り合いをあくまでも事件とするのなら就業規則に則って解雇することになると佐藤から言われたと証言しているにとどまり、クーポン券による不正納金も解雇の理由になると言われたとは証言していないことからすると、同月四日か同月五日に行われたHと原告との話合いの経過を説明するものとしてされた右の佐藤の供述ないし証言のうち、懲戒解雇になる理由としてクーポン券による不正納金を挙げたという点についてはこれを認めることはできない。

したがって、右の佐藤の供述ないし証言は、懲戒解雇になる理由としてクーポン券による不正納金を挙げた点を除いて、同月四日か同月五日に行われたHと原告との話合いの経過を説明したものとして採用する。

そして、佐藤が同月七日に行われた実況見分の後に原告に対し被告のためにすることを示して本件解雇の意思表示をした際に懲戒解雇の理由としてクーポン券による不正納金を挙げていたかどうかについては、仮に右の佐藤の供述ないし証言が同月七日に行われた実況見分の後に本件解雇の意思表示をした際の状況について供述ないし証言する部分を含むものであるとしても、右の佐藤の供述ないし証言の外には、佐藤が同月七日に行われた実況見分の後に本件解雇の意思表示をした際に懲戒解雇の理由としてクーポン券による不正納金を挙げていたことを認めるに足りる証拠はないのであって(かえって、佐藤は原告が被告に売上げを納金する際にクーポン券による不正納金をしたのではないかと疑っていたが、本件解雇の意思表示をした前後を通じて原告がクーポン券による不正納金をしたかどうかについて調査を行ったが、原告がクーポン券による不正納金をした確証をつかむことはできなかったこと(前記第三の一1(六))からすると、佐藤が本件解雇の意思表示の際に原告に対し本件解雇の理由としてクーポン券による不正納金を挙げてそのことを明確に告げたことは考え難いというべきである。)、右の佐藤の供述ないし証言だけでは、佐藤が同月七日に行われた実況見分の後に本件解雇の意思表示をした際に懲戒解雇の理由としてクーポン券による不正納金を挙げていたことを認めることはできない。

(4) 被告は、原告がクーポン券による不正納金をしたと主張しており、佐藤は、その陳述書又は証人尋問において、同年五月三〇日の原告の乗務における売上げにおいて乗務記録報告書ではクーポン券で料金の支払を受けたのは金二万七八六〇円であるとされているのに、右同日の原告の乗務における売上げの一部として三万一七〇〇円のクーポン券を納金していること、右同月に入って原告の売上げにおいてクーポン券による納金額が増加しており、これは原告が大黒屋においてクーポン券を買い占めた時期と符合することを挙げている。

しかし、佐藤の証言を子細に検討しても、乗務記録報告書にクーポン券で料金の支払を受けたとされる金額と実際に納金されたクーポン券の額面金額の合計が一致しないことをもって、原告がクーポン券による不正納金をしたと認められる理由について合理的と考えられる説明はされていないのであって、右の金額の不一致があるからといって、原告がクーポン券による不正納金をしたということはできない。

また、平成九年五月に入って原告の売上げにおいてクーポン券による納金額が増加しており(<証拠略>)、これは原告が大黒屋においてクーポン券を買い占めた時期と符合する(前記第三の一1(一))といえなくもないこと、原告が大黒屋から買い占めたとされるクーポン券は三〇〇〇円のクーポン券が一〇冊か二〇冊程度であった(前記第三の一1(一))というのであり、原告はその本人尋問において平成九年五月三〇日の乗務で旅客から受け取ったクーポン券のうち一冊にまとまったままのクーポン券はいずれも三〇〇〇円券であったと供述していることが認められ、Hが証人尋問において証言する(<証拠略>)ように、乗務員がタクシーのクーポン券を購入するのはクーポン券による不正納金をする意図があるためであり、そのほかの理由でクーポン券を購入することはおよそ考えられないとすれば、右に認定した事実を総合して、原告がクーポン券による不正納金をしたと認定することができるというべきであるが、タクシーの乗務員がクーポン券を購入するのは不正納金のためであり、そのほかの理由はおよそ考えられないとまでいうことはできないのであって、現に原告も一応クーポン券を購入した理由を明らかにしており(その理由がおよそあり得ないとまでいえるほどの立証はされていないというべきである。)、そうであるとすると、右で認定した事実を総合して原告がクーポン券による不正納金をしたと認めることはできない。

そして、Hはその証人尋問において原告は同年六月四日か同月五日の話合いの際に佐藤に問い詰められて大黒屋で買ったクーポン券を同年五月三〇日の乗務における売上げの一部として使ったことを認めたと供述している(<証拠略>)が、佐藤はその陳述書(<証拠略>)及び証人尋問においても右のHの証言に係る事実があったとは一言も供述ないし証言していないのであって、そうであるとすると、右のHの証言から直ちに原告が平成九年五月三〇日の乗務における売上げについてクーポン券による不正納金をしたと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

以上によれば、原告がクーポン券による不正納金をしたと認めることはできない。

(5) 原告は、本件殴り合いの直後の原告は心臓がどきどきしていまにも飛び出しそうな感じでこのまま倒れてしまうのかと思うほどであり、一一〇番と一一九番に電話を架けるのもようやっとの思いであったと主張しており、右は、要するに、本件殴り合い直後の原告は救急車を呼ばなければならないほどの傷害を負っていたという趣旨であると考えられ、原告はその本人尋問において同様の趣旨の供述をしている。

しかし、原告が平成九年五月三〇日の乗務における売上げを納金する際にクーポン券を預かった三好は、原告と会話を交わしたのに特に原告の病状を気づかってすぐに救急車を呼ぶなどの措置を採っていないのであり(<人証略>)、このことからすると、右の原告の供述だけでは本件殴り合い直後の原告が救急車を呼ばなければならないほどの傷害を負っていたと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

3  前記第三の一1で認定した事実を前提に、本件解雇が解雇権の濫用として無効であるかどうかについて判断する。

(一) 本件解雇の理由について

(1) 懲戒処分は、企業秩序に違反した行為に対する一種の制裁罰であり、その処分の対象は、企業秩序に違反する特定の非違行為であって、懲戒解雇はあくまでも特定の非違行為を対象とする制裁罰として使用者が有する懲戒権の発動により行われるものであるから、対象とされた非違行為が何であるかを確定する必要がある。

そして、懲戒事由に該当する複数の非違行為が存在する場合でも、使用者は、必ずその全部を対象として単一の懲戒処分をする必要はなく、その一部だけを対象として一個の懲戒処分に付することもできるし、幾つかに分けて複数の処分に付することもできると解される。

したがって、懲戒処分の対象となる非違行為は、使用者が処分時に処分の対象とする意思を有していたものに限られるわけであり、一般的には、処分当時使用者が認識していなかった非違行為を、使用者が懲戒処分の対象としていたとはいえないのであって、処分時に客観的には存在していたが、処分当時使用者が認識していなかった非違行為については、使用者は、既になされた懲戒処分とは別個に、これを対象として懲戒処分を行うことができると解される。

また、懲戒処分の対象とされなかった非違行為をもって処分の適法性を根拠づけることはできないと解され、したがって、処分時に客観的には存在していたが、処分当時使用者が認識していなかった非違行為については、懲戒処分の適法性を根拠づける目的でこれを訴訟において追加主張することは原則として許されないと解される。

(2) 本件においては、

ア 平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当することが本件解雇の理由とされていたことは当事者間に争いがない。

イ 原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則一三二条に該当することが本件解雇の理由とされていたかどうかについては、佐藤は同年六月四日か同月五日に(ママ)話合いの際には本件殴り合いの原因が原告にクーポン券を買い占められたことであることを把握していたのであり(前記第三の一1(六))、原告が同年五月以降被告に売上げを納金する際にクーポン券による不正納金をしたのではないかと疑っており、本件解雇の意思表示をした前後を通じて原告がクーポン券による不正納金をしたかどうかについて調査を行ったが、原告がクーポン券による不正納金をした確証をつかむことはできなかったこと(前記第三の一1(六))、クーポン券による不正納金は本件解雇の意思表示の際には解雇の理由として挙げられていなかった(前記第三の一1(五))が、佐藤が同年六月一五日に原告に対し本件解雇の理由を説明した際には解雇の理由として挙げられていたこと(前記第三の一1(七))、佐藤は本件解雇の主たる理由は同年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当することであり、原告がクーポン券による不正納金をしたことは付帯的な理由であると考えていた(前記第三の一1(七))というのであり、佐藤が本件就業規則に則って原告を懲戒処分に付する一連の手続に関与していたことは佐藤の証言から明らかであり、右の佐藤の認識は懲戒権を有する被告の本件解雇の意思表示がされた当時の認識であったと考えられることに照らせば、原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則に該当することも本件解雇の理由とされていたものと認められる。

ウ 被告は、右ア及びイの外にも本件解雇の理由とされていたものがあると主張しているが、右イで認定した本件解雇の意思表示をした当時の被告の認識によれば、本件解雇の理由とされていたのは、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当すること及びクーポン券による不正納金が本件就業規則一三二条に該当することのみであり、その外に本件就業規則一三二条に該当する原告の行為が本件解雇の理由にはされていなかったというべきである。したがって、被告が本件解雇の適法性を根拠づけるために平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当すること及び原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則一三二条に該当することの外に本件就業規則一三二条に該当する原告の行為を本訴において追加主張しても、本件解雇の適法性の判断に当たってはそれらの行為の存否などについて判断する必要はないことになる。

また、被告は、本訴において、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当すること及び原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則一三二条に該当することの外に件(ママ)就業規則一三二条に該当する原告の行為があることを理由に本件解雇の意思表示とは別に原告を懲戒解雇する旨の意思表示をしているわけではないから、本件解雇の意思表示とは別にされた懲戒解雇の理由として、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当すること及び原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則一三二条に該当することの外に本件就業規則一三二条に該当する原告の行為の存否などについて判断する必要もないことになる。

(3) 以上によれば、本件解雇の理由とされていたのは、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当すること及び原告がクーポン券による不正納金をしたことが本件就業規則一三二条に該当することであり、右の二つの本件解雇の理由に当たる事実の存否及び本件就業規則への該当性について判断すべきであるということになる。

(二) 本件解雇の理由に該当する事実の存否について

(1) 平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いについて

平野と原告が平成九年五月三一日朝に殴り合いをしたことは当事者間に争いがない。

(2) クーポン券による不正納金について

佐藤は原告が被告に売上げを納金する際にクーポン券による不正納金をしたのではないかと疑っており、本件解雇の意思表示をした前後を通じて原告がクーポン券による不正納金をしたかどうかについて調査を行ったが、原告がクーポン券による不正納金をした確証をつかむことはできなかった(前記第三の一1(六))というのであり、佐藤が原告は被告に売上げを納金する際にクーポン券による不正納金をしたのではないかと疑った根拠とされる事実からは原告がクーポン券による不正納金をしていたことは認められないのである(前記第三の一2(二)(4))から、原告がクーポン券による不正納金をしていたと認めることはできない。

(三) 本件解雇の理由に該当する事実の本件就業規則一三二条への該当性について

平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いについて、被告はけんかであると主張し、原告はHによる一方的な暴行とそれに対する正当防衛であると主張する。

前記第三の一1(二)で認定した平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いの経過によれば、車外においては原告はHに対し一切暴行を加えていないのに対し、Hは車外において原告に対しヘルメットを使って何回も暴行を加えているが、それにもかかわらず、前記第三の一1(三)で認定したHが負った傷害と原告が負った傷害についての診断の結果によれば、Hが負った傷害の程度も原告が負った傷害の程度もほぼ同じであると考えられること、Hは車内で原告から一方的に殴られたと感じていたこと(前記第三の一1(二))、原告もその本人尋問において車内においてHに全く暴行を加えていないとは供述していないのであって、少なくとも車内で両手を前に突き出していたことは認めていることからすると、車内においては専ら原告がHに対し暴行を加えていたものと認められる。この認定に反する証拠(原告本人)は採用できず、Hが原告との間で前記第三の一1(八)で認定した内容の示談書を取り交わしていたことは右の認定を左右するには足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

そうすると、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いとは、Hが車内において原告を一回殴ったことによって始まったものであるとはいえ、その後車内においては原告が専らHに対し暴行を加えていたのであって、車外に出た後はHが原告に対しヘルメットを使って何回も暴行を加えていたというものであるから、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いがHによる一方的な暴行とそれに対する正当防衛行為であるということはできず、要するに、本件殴り合いはHと原告のけんかであることは明らかである。

そして、Hも原告も平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いによってそれぞれ前記第三の一1(四)のとおり傷害を負い、それを理由に東京地方検察庁に送致されているのであるから、Hも原告も本件就業規則一三二条八号に規定する「刑事上の罪にとわれる行為」(前記第二の二4(四)(3))をしたというべきである。

(四) ところで、

(1) 本件解雇は懲戒権の行使としてされたわけであるから、本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当する場合であっても、企業の存立ないし事業運営の維持確保を目的とする懲戒の本旨に照らし、本件殴り合いが企業の存立ないし事業運営の維持確保に及ぼす影響や企業秩序に生じた混乱の有無、程度のいかんによっては本件解雇が懲戒権の濫用とされる余地がないではないと解される。

本件においては、平成九年五月三一日朝に起きた本件殴り合いとは、Hが車内において原告を一回殴ったことによって始まったものであるとはいえ、その後車内においては原告が専らHに対し暴行を加えていたのであって、車外に出た後はHが原告に対しヘルメットを使って何回も暴行を加えていたというものであり、要するに、Hと原告のけんかであることは明らかであること(前記第三の一3(三))、それにもかかわらず、原告はHとの殴り合いはけんかではなく、Hによる一方的な暴行とそれに対する正当防衛であると執拗に主張し、それを前提にHと和解するに当たってはHが休業損害と治療費を支払うことに固執し、Hがそれを受け入れなければ、あくまでも刑事事件として処理するよう求め、本件殴り合いがけんかであることを指摘した上で和解するよう求める佐藤の説得を聞き入れようとしなかったため、野方警察署はHと原告との殴り合いを刑事事件として立件せざるを得なくなったこと(前記第三の一1(五))、被告も野方警察署からの示唆を受けてHと原告が和解をすればしばらく二人に内勤をさせた後に乗務させようと考えていた(<証拠・人証略>)が、本件殴り合いが刑事事件として立件される以上、Hと原告を本件就業規則に則って厳正に処理しなければならなくなったこと(前記第三の一1(五))、本件殴り合いは被告の車庫内に停車中のタクシーの車内及び車外において行われた乗務員同士のけんかであり(前記第三の一1(二)、第三の一3(三))、本件殴り合いの結果、原告は本件殴り合いが行われた翌日である平成九年六月一日から本件解雇の意思表示がされた同月七日までは佐藤に呼び出された同月四日か同月五日を除いては被告に出社せず、Hは同月一日以降毎朝出勤していたが、被告は本件殴り合いの決着がついていなかったので、Hを乗務させなかった(前記第三の一1(九))のであって、被告の乗務員の中では売上げが非常に多いHと原告(前記第三の一1(一〇))が乗務しなかったり被告の判断で乗務させなかったりしたことは、Hや原告のみならず被告にとっても大きな損失であったと考えられること、原告は本件殴り合いの直後に警察と救急車を呼んでいるが、本件殴り合いの直後は午前七時すぎころであって(前記第三の一1(二))、そのような時間帯にパトカー救(ママ)急車が被告方に到着したというのであるから、被告の近隣に住む者の耳目をひいたものと考えられること、以上の事実が認められる。

これらの事実によれば、本件殴り合いが企業の存立ないし事業運営の維持確保に及ぼした影響や企業秩序に生じた混乱は決して小さなものとは考えられないのであって、本件殴り合いが本件就業規則一三二条八号に該当することを理由にした本件解雇が懲戒権の濫用であると認めることはできない。

(2) 本件就業規則一三三条は「懲戒解雇事由に該当するもので、過去の勤務成績、程度等の情状を酌量し、懲戒解雇を免じ他の懲戒に処するか又は解雇或は退職にすることがある。」と規定しているが、右(1)で認定、説示したことに照らし、被告が原告を懲戒解雇以外の他の懲戒にすべきであったとか、退職させるべきであったなどということはできないのであり、被告が原告に対する懲戒として懲戒解雇を選択したことが懲戒権の濫用であるということはできない。

(3) 他に本件解雇が解雇権の濫用であると認めるに足りる証拠はない。

(五) 以上によれば、本件解雇は有効であるというべきである。

二  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

(裁判官 鈴木正紀)

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